この世にうず巻く様々な正と悪、理不尽で無理解な中傷、 心を痛める社会にあってかろうじてつかむ癒しのオアシスが あるとすれば、それは真実以外の何ものでもなく、その真実には 悲しみだけが残されている。その悲しみを伴った真実を知る作家、 ボードレール。あの世紀にまたがる裁判を引き起こした時代の 迫害は、彼の作品に複雑で、しかも絶対的軌跡を残させることとなった。 九十二年をかけて集結をみたこの事件の主人公『悪の華』は、五十年後の今、 古典として生きつづけている。

ガレの生誕前から始まり、フランスが生んだあらゆる文学者、詩人の名を登場させ、 裁判所を芸術論議の舞台へと変えたかのようなこの事件は、芸術家としての ガレに多大な影響を与えたのは言うまでもない。ガレがボードレールの擁護の 立場にいたことも疑う余地はない。一八六七年、ボードレールの死去をよそに 『悪の華』の迫害は続く。あらゆる悪をとり上げたボードレールの詩篇は、 悪をつるしあげ、萎えさせるためであり、そこに真実と正が浮かびあがってくる。 偽善者達が彼の詩に触れても、ただ赤面する能力しか持ちあわせない。ボードレールの 戦いは、それを俗悪なエロティシズム、神への冒涜などと理解する者たちとの戦いであり、 彼の詩の正当性は「悲しみ」を歌いあげたところにあったのである。

ボードレールの死から二十五年後、ガレは『悪の華』の一節を盛り込んだこの花瓶 「トリステス」を発表する。ボードレールの悲しみをガレはおだまきの姿に変えた。 「おだまきはその悲しみをかくそうとはしない」とガレが言うように、悲しみにもっともふさわしい花は、 花瓶の中に姿を現し、ガレの傍らに置かれた。

シャン・ド・マルス展で発表されたこの作品について、ガレは多くを語っていない。 金、銀、玉虫色で花を装飾したこと、下部から水蒸気をたちのぼらせたことだけである。 自分の作品に神経質なガレには珍しいことである。この花瓶には花のためだけでなく、 大きな銀箔が数カ所封入されている。また、水蒸気の中にボードレールの詩が隠されている。

Je t'adore l'egal de voute nocturne,
O vase de tristesse, o grande taciturne,
Baudelaire

夜の天球にも等しく私は君を崇める、
おお悲しみの壺、おお丈高い寡黙な女よ、
ボードレール

悲しみに満ちあふれた男(詩人=壷、器)は女(=夜空)に呼びかける。 あまりにも彼方の夜空は答えることはない。すなわち、女は答えることのない静寂さで男を見つめる ・・・・・・のように解釈できるだろうか。ここから始まる十行詩はエロティシズムのドラマであるが、 この中で男はただ悲しみという一語で表現されることに尽きている。美しくもの言わぬ女は夜空の冷たい月であり、 男に残忍さだけを残す。

この花瓶の静寂さをたたえた青は、夜空を求める男の姿であろうか。天空との無限の隔たり悲しみのおだまきが 咲く。それはどんなに探求しようと、変わることのない真実の悲しみである。

作家、詩人、画家、彫刻家、工芸家など、おびただしい数の芸術家を生みだしたフランスの十九世紀。 人類史上類を見ない世紀であろう。多くの工芸家を誕生させたのは、時代の贅沢さ。その中で、他の追従を 許さなかったガレ。彼の作品には常に壮大な宇宙と、それに基づく構想があった。それは、ボードレールや ユゴーの詩の世界を憚らない。ここにガレのガレたるゆえんがある。

彼の哲学は炎を燃え上がらせた。すべてが終わって、冷たくなった彼の作品は観念の塊となった。


ガレは観念の人であった。