一九世紀のパリは芸術の花開いた時代であった。伝統を捨て、自由自在に芸術を生み出した世界中の
芸術家達の憧れの都であった。そこには新しい芸術を迎え入れ、理解するサロンがあり、パトロン達は
その審美眼を競うことに熱中していた。実業家シャルル・ルボーは十七世紀以降のあらゆるジャンルの
芸術の収集家として有名であった。彼は晩年、そのコレクションを世紀末芸術に傾け、とりわけガレの
作品に対しては熱狂的であった。ルボーは一八九九年、パリ万博でこの作品と出会った。そして、
直ちにこの花瓶と同じ物を注文している。
名を残すほどの美術収集家を熱中させたこの華奢で、触れれば消えてしまいそうな花瓶。夏の終わりを
告げ、まだぬくもりの残る大地から立ち昇る水蒸気。あの夏の開放感や想い出も、泡と一緒に
消えていくかのようである。
暖かさを求めて旅立たねばならぬつばめたち。そのつばめたちは冬の訪れを一早く察知して、
ひそひそ話をしている。季節の冬の訪れだけでなく、人生のそれをも気づいているかのように。季節の
変わり目さえ気づかぬ人間達をよそ目に。
ガレは書簡(Ecrits Pour LArt, 再刊1980,pp.334-335)の中で、この花瓶を制作するにあたっての高度で、
新しい技法の駆使について詳しく述べている。花瓶全体を覆う大小の泡。それらは花瓶の中心に吸いよせられ
水蒸気となり、細く長い鶴首はそれらを吸い上げる一本の細い竜巻と化している。この泡をガレは、
「ビュラージュ」と称している。科学技術を駆使し、完成させた苦心の技法である。花瓶下部周辺に見られる
金属が錆びたような色は、薄い金属の膜によって生じさせたものである。この技法は科学と炎が一つになった
結果であり、それはガレ自身「美のフランベ」と言い、同じものは二度と作ることはできないと述べている。
この楚々とした水の一滴のような姿に、燃える炎と最新の科学を想像させるものは何もない。
日本的な墨で描かれた(カマイユ技法)つばめたちの飛び交う姿。電線に止まってひそひそ話をするつばめたち。
それを聞こうと耳を傾け、身を乗り出す数匹のつばめたち。それぞれに騒々しく忙しそうである。こんな情景を幼い頃
絵本の中で見たような気がする。
やはりカマイユでかかれたテオフィル・ゴーチエの一節も、その字体の楽しさは絵本の中の文字に
出会ったような気にさせてくれる。
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La Pluie au bassin fait des bulles
Les Hirondelles sur le toit
Tiennent des conciliabules
Voici l'hiver, voici le froid!
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水たまりに雨、水面は泡立ち、
屋根のつばめたちは
ひそひそ話にかかりきり、
冬が始まる、寒さがくるよ!
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